しんせんいけ。
月山山頂にある輪廻転生の池。
百名山でもある月山の頂にある池でありながら、山上湖と呼ぶにはあまりに目立たず、また同様の小さな池塘がいくつもあるものだから、実際にどれが神饌池か分からず、人に訊ねてやっとこれと知った。
名前も「神●池」としか分からず、たまたま池の横で訊ねた人がくわしい人だったので「しんせんいけ」とおしえてくれたからよかったが、その人にしても「せん」はどういう漢字を書くのかとかさねて訊ねても、口を濁らせるばかりで、はっきりしない。
月山と対置して語られることの多い鳥海山がふところに抱く鳥海湖のような、山名をその池名に冠した、誰もが、ああこれぞ鳥海湖とうなずくようなものがない。
山頂小屋のすぐ裏手にあるが、特に看板らしきものもなかった。
とりあえず忘れぬうちに「神せん池」という読みだけをメモにして、持ち帰ってから調べてみると、神饌池という字にあたった。
神饌とは、本来、神に供える酒や料理のことだが、月山の神饌池には特別な意味があるらしい。
九合目の仏生池(ぶっしょういけ)の水を飲むことで、行者は一度死んで仏となり、頂上の神饌池の水を産湯として再びこの世に生を受けるという。
確かに死者の山、月山で人は一度死に、下った先にある湯殿山で再び生を受け、まっさらな自分に生まれかわるという信仰は古来からあり、俳聖・松尾芭蕉も羽黒山から月山に登り湯殿山に降りた経験を「おくのほそ道」に記している。
それにしても月山の山頂に、湯殿山と似た役割の池があるということは知らなかった。
再び生を受けるという湯殿山は、かつては女人禁制、現在も何人たりとも裸足で進まねばならず、撮影禁止はもちろん、そこで何を見たかを語ってはならない。
芭蕉も「おくのほそ道」に、あえて書かないとしか記していない。
月山の山頂にある石積みの社殿も、鳥居から先は撮影禁止だった。
この記事を書くにあたって、月山の水辺めぐり図絵を描こうとしたが、どう描いたらいいのか悩むばかり。月山は遠くから見れば、半円の単調な山なのに、いざ自分で登ってみると、どう表現していいのか分からない。細部を描くと月山に見えず、月山を描くと見取り図にならない。いったん、あきらめることにした。
そういえば、という感じで、学生時代に読んで感銘を受けた森敦の芥川受賞作『月山』の一節が、おぼろに蘇った。古い文庫本を探した。
すなわち、月山は月山と呼ばれるゆえんを知ろうとする者にはその本然の姿を見せず、本然の姿を見ようとする者には月山と呼ばれるゆえんを語ろうとしないのです。
(森敦『月山』)
それはけっきょく死と同じことだ、と森敦はこの文のあとにつづけている。
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神饌池は山頂小屋の70m南にある。Googleマップでは池として記載されていないが、航空写真に切り替えると池を確認できる。マークした場所が神饌池。