勝間次郎池。
讃岐野池を代表するもう一人の次郎には、魔性と人柱の古い過去があった。
讃岐を代表するため池といえば昔から、満濃太郎(満濃池)、神内次郎(神内池)、三谷三郎(三郎池)という言葉がある。
府中湖など現代工法のダム湖ができる以前の話なので、太郎格の満濃池は別格として、次郎、三郎の方は今から見れば、とりたてていうほど大きな池とはいえなくなってしまった。
ここで紹介する岩瀬池もこれらと同規模の池であるが、驚いたことに平安時代には「勝間次郎」と呼ばれたまぎれもない次郎格、満濃池に次ぐ大池だったという。
しかし次郎格といえば神内次郎こと神内池がある。次郎が二人とはどういうことだろうと思って調べてみると、室町時代から戦国時代にかけての120年ものあいだ、勝間次郎池は廃池となっていた。
この間に神内池の方が次郎格を襲名したのかは定かではないが、廃池という言葉は興味深い。
なんでも魔性に取り憑かれた勝間次郎はたびかさなる破堤で村人を苦しめ、貴婦人とその下女が人柱に立てられた犠牲もむなしく、室町時代(1470年)の決壊を最後に修復されず、放棄されたということだった。
それから百年後の戦国時代、再び豊かなため池を取り戻そうと動いた地元郷士がいた。戦乱の世で池造りどころではない状況の中、100年前の池跡にほど近い阿魔谷に新堤を計画。「魔」がつく谷はどことなくこの地に棲み着くもののけを思わせるが、「このアマ、やってくれるわ」などと言うときの女を蔑視的に指す「アマ」を漢字で書くとこの「阿魔」である。
1590年に豊臣秀吉の全国統一によって戦乱がおさまるや築堤工事に専念するが、ここでも正体不明の魔性に邪魔され、大麻神社によって調伏。豪胆な武士が指揮をとっていなければ逃げだしているところだ。この郷士が池の復興を思いたってからじつに二十年、1592年に岩瀬池は竣工する。
その後、江戸時代、昭和、平成と、何度も堰体のかさ上げが行われ、現在はダムスペックを満たす立派なダム湖となった。もはや魔性も手がでない・・というか、調伏されて池の守り神に転向したとのことである。
池は国の天然記念物であるコウノトリの飛来地。池への立入禁止看板あり。