まんのういけ。
日本一のスーパースター、ロストレイク、そして四国へらぶなの大産池。
全国ため池100選に選ばれるのは当然だろう。その存在感、歴史、地域との結びつきのどれをとっても、100選どころかトップを張る燦然たるスター性に満ちている。
まずその規模。湖周長20kmは、溜め池として日本一。深さも最深部で30mを越える。
もっとも「池」の名のつく湖沼全体でみれば鳥取県の湖山池に湖周長では勝るものの、面積では4分の1ほどしかないため、「日本一大きな池」とは言えないところもある。
それでも満濃太郎の通り名は、狭い県土に1万4千余の溜め池を有する香川県(密度で全国1位、数では3位)の長男的存在であることを示している。(※中国四国農政局が公表している数値)
そんな満濃池だが、じつは400年ものあいだ池は消失しており、池跡に池内村という集落や田んぼが広がっていた時期もあった。大復活を遂げたロストレイク(消失湖)といえる。
オリジナルの池が造られたのは今から1300年近く前の紀元700年ごろだが、幾度となく決壊と修築をくり返してきた。
溜め池界のスーパースターである空海(弘法大師)がたった五人のアシスタントを引き連れ、満濃池の修築にやって来たのが821年。それまで三年かかってもうまくいかなかった難工事を、たった二ヶ月で完成させたのは、空海の卓越した設計や現場監督としての技量だけでなく、空海さんが来てくれた! と熱狂して工事に邁進したのべ十万人もの人々の底力であろうか。空海のスター性が、疲れ果てた現場の気持ちをひとつにし、不可能を可能にした。
そんな話はロマンがあっていいものだが、空海による満濃池改修について建設大手の大林組が現代工学的な視点から検証しており、実際には工事最終段階のハイライト(同時に難しい仕事でもあるが)のところを、空海さんが現場で取り仕切ったようだ。
最後まで切り欠けていた堰体中央部を盛り立てて、華々しくダムを完成させるというビジュアル性もあって、長く空海伝説のひとつとして語り継がれていったのだろう。
しかしそれでも平安時代末期の大決壊を最後に満濃池は放棄され、江戸時代に再興されるまで400年ものあいだ失われた池となっていた。長らくロストレイクとして放棄されれていた点において同県の岩瀬池の境遇にも似ている。
ゆるやかにカーブを描いた堰体は空海の設計図をもとに江戸時代に再建され、その形状は今に引き継がれている。それでも木製だった底樋の劣化に伴う工事負担は大きく、江戸末期に左岸側の岩にトンネルを掘って取水管とすることで解決をみた。底樋と石造りの樋門は2000年に登録有形文化財にもなっている。
現在、左岸側の岬からは管理橋が渡された立派な取水塔が湖面に浮かぶ。一方、台地側の岸は激しくリアス状に入り組んで深いワンドをかたちづくっている。
6月13日には取水開始を告げる伝統行事「ゆる抜き」が行われ、地元メディアをはじめ多くのカメラマンが集まる。「ゆる」とは取水口をふさぐ木製の栓のことだが、立派な取水塔がある現在は屋根の下の機械操作をするだけで済む作業だが、大正時代までは力自慢の男が木の栓を抜くや放水口からほとばしる水が観衆を沸かせていたという話だ。
満濃池は丸亀平野の田畑を潤しているだけでなく、石田商店が漁業権をもち、池で巨大に育った四国産へらぶなを全国に出荷している。
隣の新池で竿を出していた地元釣り師の言葉が忘れられない。
満濃池のことだから60センチを越える幻の巨大へらぶなも「きっといる」と。
養魚池なので釣り禁止・ボート禁止の看板が立つが、満濃池が増水した際にこぼれ落ちてきた巨べらが周囲の野池に居着いているかもしれないという可能性に賭ける釣り師たちのロマンを感じた。
堰体は駐車スペースにもなっているほか、右岸側の高台は国営讃岐まんのう公園が広がる。
満濃池に来るたびに思う。ここは日本の溜め池の、まぎれもないスーパースターなのだと。
マークした場所は堰体上の駐車スペース。