水辺遍路

訪れた全国1万1,100の池やダムを独自の視点で紹介

権五郎目洗いの池(千葉県野田)

ごんごろうめあらいのいけ。鎌倉権五郎目洗いの池とも。
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「目吹」という地名の由来ともいわれる伝説の池。

実家が松戸なので若いころは赤城方面にオートバイでツーリングに行くとき、利根川を越える目吹大橋(めふきおおはし)をよく使っていた。
目吹大橋付近には良い池がいくつかあって、釣りでは又八沼、野鳥観察ならはきだし沼。地味な水辺だが日本の重要湿地500選にも選ばれている。
それにしても目吹(めふき)とは奇妙な名だなと、橋を渡るたびに思っていたが、その由来のひとつとされる池に会うことができた。
時は平安時代末期。
貴族から武士へと覇権の過渡期を象徴する前九年、後三年の役にあって、相模出身の鎌倉権五郎景政という16歳の若武者を襲った弓矢が右目を貫き首の後ろまで達する致命傷を受けた。それでも矢を放ち敵を倒した上で、大地に仰向けになった。
三浦平太郎為次という名高い武者がこれを見て、景政を助けようと駆け寄り、目に突き刺さった矢を抜こうとした。いくら引っ張っても抜けないので、やむなく顔に足をかけて全身の力で抜こうとしたところ、やい何をする、と残った目をくわと見開き、あろうことか助けている自分を刀で突こうとしている。思わず足をはずしたところ、
「矢に当たって死ぬるは武士の本望。しかし生きながら顔を踏まれるのは武士の恥辱。おのれ、お前をここで殺し、おれも死ぬ」
けっきょく膝立ちになって、何とか矢を抜いてやったということである。
その後、景政は千葉県野田の目吹の一帯を知行地として与えられ領主となる。領地内にけっして枯れることのない不思議な泉があるということを聞き、戦で受けた右目の傷をひたしたところ快癒したという話が、「目吹き」の由来のひとつなっているそうだ。
この権五郎目洗いの池は宅地と農地が入り交じる場所にある。農地と宅地にはさまれた一角がこんもりとした雑木林になっており、人目を避けるように池がたたずむ。
目印となるのは1.5車線の生活道わきに立ったこの標柱だけ。水辺遍路のマップでは正確な池入口の位置をポイントしておいたので、興味がある方はお役立てください。

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標柱かたわらの茂みに見える穴。ここをくぐって中に入った。中はかろうじて人の踏み跡らしきものが数条見えるが、ほとんどヤブコギ。正直、訪れたときは池の水面はよく分からない状態だった。
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北側の草地から池のある雑木林をのぞむ。木の手前の、アシが茂っているあたりが池のようだ。
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マークした場所は、池への入口(標柱が立っている場所)。