【おたまがいけ。於玉ヶ池。桜ヶ池】
二人の武士が一人の女をめぐって決闘。女は身を投げ、その名が池名に。
靖国通りと昭和通りが交差する岩本町は、首都高速、地下鉄も入り交じる都心の交通要衝である。この大通りから一歩路地に入るとビルの谷間に生まれた束の間の静けさが訪れる。
ビルとビルのあいだのわずかな空間に小さな祠があり、通りがかりの男性が手を合わせていた。
祠のわきにはユニットバスほどの大きさの池。これがかつては上野の忍不池(しのばずいけ)をしのぐ大きさの池だったことを連想できる者はいないだろう。
江戸時代初期、池は桜ヶ池と呼ばれるほどの桜の名所だった。池岸には茶屋があり、看板娘のお玉に二人の若侍が思いを募らせた。二人の決闘を気に病んだお玉は池に身を投げ、亡きがらが上がった場所に祠が建てられた。
いつしか池はお玉ヶ池と呼ばれるようになったが、埋め立てによる宅地化によって江戸後期の古地図にはもはや池の姿はなく、文人らを多く集めた屋敷町になっていた。
江戸幕府直轄となったお玉が池種痘所は、幕末、維新を経て東京大学医学部へと発展していく。茶屋の看板娘に生まれたひとりの女性の名前は、この国の最高学府の起源として今なお生きている。
同名の池は神奈川県箱根にも。箱根のお玉ヶ池にも、若い女性にまつわる悲話が伝わっています。お玉という名の女性は、悲しい池伝説になるべき運命を背負っているのでしょうか。