おきのい。
住宅地の中にいきなり。国名勝の池。
かなり変わりダネの池。この池にいちばん萌えるのは日本文学好き。「おきのい」と読み、沖の井、沖の石とも。
松尾芭蕉の『おくのほそ道』にも言及されたゆかりの地として、60mほどのところにある「末の松山」とともにオートバイで訪ねたのは、東日本大震災のずっと前だった。
そもそも松尾芭蕉がここをを訪ねたのも、古来から名歌に詠み込まれた歌枕として歌人たちの憧憬の地だったからである。それが住宅地のただ中に突如として現れるものだから、びっくりする。さらにその小ささに唖然とする。
わが袖は 汐干(しほひ)に見えぬ 沖の石の
人こそ知らね 乾く間もなし
『千載集』に載っている二条院讃岐という平安末期の宮中女性の恋歌で、干潮になっても海底にあって姿が見えない沖の石のように人知れず涙する恋、といった意味から、もともとは海にあった岩とも思われる。となれば現在の池は海跡湖とも考えられるわけだが、そもそも平安時代の歌人でも実際に歌枕に行っているわけではなく、噂や想像で歌に詠み込んでいる。実態とは別に想像上の姿が先走ってしまった可能性もある。
それにしても「沖の石」というぐらいだから、もう少し大きい池の状態で保存できなかったのかとも思ったが、江戸時代に描かれた絵でも民家の屋根と柵に囲まれた小さな池の姿だった。とすれば江戸時代には干潟は排水されて、この名勝だけが池として保存モードに入っていたと考えられる。
にしても今は防火用水の池ほどの大きさしかなく、生活道と民家の塀に囲まれているにもかかわらず、奇岩磊磊たるさまは箱庭のような異界感が何ともいえぬ魅力を放っている。
当時、迷いながらこの池にたどり着いた際は「沖の石」という名の小さな史跡看板があった程度だったと思うが、2019年の再訪時には「興井(おきのい)」の名で国の名勝にも指定されているとの立派な案内看板が立っていた。
東日本大震災では津波がこの池を呑み込み、60mほど先の少し小高くなった末の松山の足もとで止まったそうである。