水辺遍路

訪れた全国1万1,300の池やダムを独自の視点で紹介

ぶなが池( 新潟県十日町)

f:id:cippillo:20200701120446j:plain
池畔の広場とアート作品

空中庭園というアートと廃墟感

新潟でも特に豪雪地帯である十日町(越後妻有)はいつからか野外芸術の一大エリアという印象が定着してきたように思う。
ここ、ぶなが池の池畔にも「マザーツリー空中庭園」というアート作品が置かれている。解説をオフィシャルサイトから引用してみよう。

まず中央の作品は、「記憶を見るための階段、または、地面に向かって時間の中を昇って行く私」と題され、6メートルの空中に持ち上げられた2本の神木のような木(山ぼうしとブナの木)、そしてそこに登ってゆくための長い階段、神社を作るときの生成の身体感覚の物語がそこにある。公園の四方には、蒲生地区の土地とこの現場との様々な縁(方位と私の出会いによって生まれた寓話、東—藤の花、西—爪、南—南からの鳥、北—隕石)によって、4つがインスタレーションされる。この場の現実の姿の中に見えない世界を再びここに誘い出して見ることである。公園は、宇宙の縮小版であり公園の内部世界は外部の宇宙世界の入れ替えとなっている。さらに、ここは植物園という生き物の成長の軌跡として、これからも制作され続けていく。
ECHIGO TSUMARI ART FIELD・太字は筆者施す)


なんとも壮大な志である。
解説が難解すぎてよく理解できない自分が不甲斐ないが、空中庭園というには木は大きく育っておらず、作者の意図とは違って、意外な廃墟感が魅力になっている気がする。


f:id:cippillo:20200701120429j:plain
アート作品がなければ、植物公園というより、ただの野池にしか見えない。水中にうっすら見える水没した中堤のようなものもアート作品なのだろうか


 

「蒲生」という地名と、方角に関する伝承との関連性

さて今一度、解説文をよく読んでみると、このアートの作者は「蒲生地区の土地とこの現場との様々な縁(方位と私の出会いによって生まれて・・云々)」というように、恣意的に現場を選んだのではなく、何らかの強烈な啓示を受けてこの池に向き合っていることがうかがえる。
私にとっても池の立地と方角については、このあたりに伝わる池伝説から気になることがあった。


f:id:cippillo:20200701181137j:plain


6.9km離れた鼻毛の池の方角に、さらに同距離の延長線を伸ばすと、野々海池という山上湖にほぼぶつかる。
鼻毛の池の伝説には「蒲生の池」と共謀して野々海池のヌシを殺したとある。
鼻毛の池はもともとは両池の仲人(なこうど)役。
「仲人」から読み取れるメタファーを「距離的な中間点」と仮定してみたら、ここ蒲生地区の「ぶなが池」に行きあたったわけである。
野々海池の神殺しの下手人。その所在を、彼はアート作品を通じて伝えようとしたのではないか。なんてことを『ダヴィンチコード』を思い浮かべつつ妄想するのだった。

bunbun.hatenablog.com


 

植物公園とはいえど

池は「ぶなが池植物公園」と銘打たれてはいるが、未舗装の駐車スペース数台分と、マザーツリー広場しかない。
「植物公園」の甘い先入観をガツンとやられた。そのネーミングさえもアートの一部であることが解説からうかがえる。
特に魚影や魚の気配は感じなかったものの何となくスピナーベイトを数投、通してみた。
するとブラックバスが一尾、ルアーの後ろについてきて、岸近くになると潜って消えた。その後も、スピナベを通すと、ふらっと姿を見せるが、バイトには至らなかった。
そういえば佐渡島の野池でも、一見、まったく気配がないように見えても、スピナベに誘われて魚が出てきたものだった。
スレてはいるが愛想は悪くない。そんな感じだった。

f:id:cippillo:20200701120452j:plain
現在地マークが駐車スペース。


f:id:cippillo:20200701120439j:plainf:id:cippillo:20200701120420j:plain
近くの道の駅


マークした場所は駐車スペース。