らいざんおおためいけ。
堤高20mの立派なアースダム堰体をもち、糸島の野池群の筆頭格であると同時に地域の農業史に輝く溜め池である。
県営事業として昭和19年に完成。福岡県内には5200ヶ所強の溜め池があるが、竣工当時は県内最大の溜め池だった。いやはや会ってみても、その立派なこと。ぜひ公園化してもらいたい池だが、現状では大きな記念碑のたもとに管理用の駐車スペースがある程度。
釣りは禁止エリアが設定されているとの看板があったが文字が消えかけてよく読めない。堰体側はフェンスで入れないし、どこだったら釣りをしていいのか、よく分からなかった。池のキャパシティからすると、すごい魚もいそうであるが、フローターでブラックバスの好釣果を得たという報告も見かけた。
湾曲した美しい洪水吐には穴が穿たれ、水が噴き出していました。スライドゲートの水門で調節できるようです。
裏側にまわってみると、ゲートを操作するための渡り板も設けられていました。堰体の反対側には渡橋つきの立派な取水塔があるのに、なぜ洪水吐で水を抜くコントロールをする必要があるのか、そんなマニアックな運営管理がたまりません。
マークした場所は駐車スペース。
以下は九州農政局のホームページより抜粋。
大原研介氏の溜池建設に身命をかけた歴史
昭和9年(1934年)
「大旱魅」発生
旧前原町、雷山村の被害面積1、448町歩。
内訳作付け不能面積100町歩。
一月遅れの田植え面積の内収穫皆無589町歩。
減収見込み(70%以上) 759町歩。
被害額1,450,000円
(参考:雷山大溜池築造工事費487、000円)この年至る所で、ため池築造の機運が高まった。
昭和9年8月19日(1934年)
「地元愛郷運動団体の糸島会は、この事態を切り抜けるため郡農会、町村長会、産組郡部会等に打診、調整を図り郡公会堂で大協議会を開催。
旱魅地の地租免除等の決議のうえ当時の代議士へ陳情する。
雷山大溜池の築造計画を持ち上げる。
大原研介氏〔昭和14年12月雷山村長就任〕が、築造委員長として事業推進に乗り出す。
昭和10年8月16日(1935年)
県知事会で、雷山大溜池の建設計画。
総事業費417、000円、かんがい面積1、061町歩が議決される。
12月中旬に起工式が予定されたが、築造計画地点の周辺集落(香力)よリエ事反対運動が起こり、中止。
問題点
土地接収、負担金、その他
雷山村長 有田広太氏 辞任 後任 波多江猿吉氏
昭和11年(1936年)
大原委員長 説得に奔走
昭和12年(1937年)
大原委員長 説得に奔走
同年3月14日付
大原委員長 辞任 雷山村議、その他に宛てた書面の内容に 「果して満足に行わるるや否や憂慮にたえず日夜苦心奔走仕候えども何分浅学非才の不肖の微力にては如何とも致し難く村民各位に対し実に面目次第も御座なく噺悔の至りにたえず断腸の感転々あリ残念至極に御座候‥・」と、ある。反対者と和解できなかった。
同年10月1日付
県は、本省に対し強制土地収用法適用を申請
同年12月8日
簡牛代議士 来福 赤松知事に面接
調停工作の為、三島県議、是松正美、高木前原署長と会談、絶対の協力を求める。
同年12月9日午後
簡牛代議士は、郡公会堂にて前原雷山両町村の世話役と共に解決策を徹夜で検討同年12月10日
大根喜ハ氏と共に、香カ黄楊寺にて反対する地元関係者代表外と会見
同夜9時和解
同11時30分、郡公会堂。調印式を挙行。
大原研介氏は、この時助役として参列し、声涙共に下る感激の挨拶を述べた。
また、同日は、南京陥落の歴史的な日であった。
着工年月 昭和12年5月(実質の着工同年12月記念碑掲載)
竣工年月 昭和19年1月
工事は、奉仕隊その他によって進められた。
旱魅から農民を救う手段の溜池建設は、建設地点の湿田25町歩を持つ農民から土地を接収するという犠牲の上に成り立った。大原氏は完成間近、自宅で勝子夫人に「香カモンが可哀相でナァ犠牲が大きかったからナァ」と漏らしている。
昭和19年9月(1944年)
完工式 挙行
大原研介氏略歴
明治21年3月10日富山村香力折久保に生る。
昭和14年12月雷山村長となる。
昭和20年11月雷山村長辞任
昭和21年10月11日永眠
(参考資料:前原町土地改良区編纂雷山溜池建設史より)