【ゆやまいけ。細川池】
200年以上をかけた執念の干拓
鳥取砂丘の東部、塩見川河口部の入り江が砂の堆積によって弥生時代ごろまでには潟湖(砂丘湖)となったようだ。江戸時代にはこの潟湖の上部は湯山池、下部は細川池と呼ばれていた。
江戸時代享保年間の新田開発プロジェクトのもと、ここ湯山池でも干拓事業が始まるが、砂丘から飛んでくる大量の砂のため排水路が埋まり、干拓はなかなか成功しなかった。
安政時代に宿院義般が、峠をはさんだ西隣にある多鯰ヶ池からトンネルで水を引き落とし、排水路の砂を押し流すというアイデアで長年の課題を突破。
それでも湯山池が完全に水田に生まれ変わるまでには昭和まで待たねばならなかった。じつに干拓プロジェクト完了まで200年以上を要した難事業であった。
湯山池干拓については、多鯰ヶ池の導水トンネル入口付近の池畔にパネルとジオラマが屋外展示されている。
池の名残りは「湯山」の地名に残る。