二ツ池公園。
古い釣り場が釣り禁止を経て、釣りデッキのある公園に。
横浜の住宅地の中にある二ツ池公園の、二つの池のひとつ。
もとは江戸幕府開幕前後に築造された大溜池という名の古い溜め池。江戸中期に水の分配を行うために中堤が設けられ、獅子ヶ谷池と駒岡池の二つの池になった。
昭和45年には、農業用ため池としての役割を終えたにもかかわらず、バブル期を乗り越え半世紀近く守られてきた。そして平成27年に風致公園化され、行政による保全管理が行われることになった。
池を隔てる中堤について、公園化で設置された案内板には「龍の道」と記されている。池の主だった竜が息絶えて、横たわったものが堤になったという伝説もある。
おもしろいことに、獅子ヶ谷池側と駒岡池側ではストーリーのディティールがかなり異なる。
獅子ヶ谷の方は生娘の生け贄を求める竜を退治する能動性が物語を引っ張るが、駒岡池の方はあくまで受難という立場に徹し、解決はただ時間に委ねられている。
実際の中堤の建設にあたって、慎重な駒岡村と積極的だった獅子ヶ谷村との見解の違いが、伝説の骨格に及んだのだろうか。
駒岡の伝説に描かれているように、江戸時代には人気の釣り場となっていたらしい。その伝統は今なお引き継がれ、近くの三ツ池公園やすぐ隣の獅子ヶ谷池は立ち入りや動植物の捕獲が禁じられているが、こちらの駒岡池には立派な釣りデッキが設けられている。
釣りは柵ごしとなるが、竿掛けや竿を出しやすいように工夫された柵である。万力をはさむための横木や、柵の切り欠けには感心した。
2012年に訪れたときは立入禁止看板に釣り禁止が明示される一方、現在は釣りデッキになっているあたりが固定釣り台に埋められていた。
2013年に訪れたときは、まだ水上デッキはなく、デッキの対岸側にあたる中堤の岸に私設の固定釣り台がずらっと並んでいた。ふな釣り師よりも、タナゴ釣り師の方が多かったのが印象に残っている。
2015年の公園化以来、ゾーニングに基づいた管理法が採用され、釣り台が並んでいた中堤は動植物保全エリアとして立ち入りができなくなった。2018年の再訪では、釣り台もすべて撤去されていた。
一方、住人が水に親しめるようにした「利用ゾーン」は、釣り公認どころか、釣り用の特殊な柵に予算がついたという点で驚く。駒岡池での釣りは、もはや伝統文化のレベルにあるのかもしれない。
一律に立ち入りや釣りやボートといった水面利用を禁止するのでなく、規制エリアと利用エリアを設けてルールのもとで開放するゾーニングは、最近では公園や水辺でときどき見かけるようになってきたが、これほど小さな風致公園で採用されていることに驚いた。
なお釣り可能エリアでも、ルアーなどキャスティングで人に迷惑をかける可能性のある釣りは禁止。水上デッキは散策路でもあり、釣り専用ではない。ゾーニングといえば、そろそろサイクリングロードでの歩行者レーンと自転車レーンの区分けは必須だろうか。サイクリングロードなんだから自転車優先! なんて豪語して歩行者や愛犬家を蹴散らすサイクリストはさすがにいなくなったと思うが。
マークした場所は、釣りデッキ入口。
駒岡村に伝わる口碑(横浜市鶴見区オフィシャルサイトより抜粋)
むかしむかし、武蔵の国に駒岡という小さな村があった。この村は、三方が小高い山に囲まれており、その中に大きな沼があった。沼のまわりからはおいしい水が湧き出るので、どんな日照りの年でも水が涸れることはなかった。沼から流れ出る小川の水は、下流の田畑を潤していた。
夏になると村人たちは、連れ立って大沼のほとりで釣りを楽しんでいた。この沼では、コイ、フナ、ウナギ、ナマズなど、大きなさかながたくさんとれ、村人たちの栄養源として大変役立っていた。
ところが、ある夏の夕暮れ近く、一番高い小山の峰に、一軍の黒雲が現れたと見る間に、雷鳴とともに黒雲は大沼を覆い、どしゃ降りの豪雨となり、激しい雷鳴がとどろき、閃光が空を切り裂いた。
村人たちは驚き、大沼のほうに目をやると、ひとかたまりの黒雲が恐ろしい勢いで沼の中に落ちていった。
その瞬間、沼の水は渦巻き、天が落ちてきたのではないかと思うほど、恐ろしくて大きな音がした。音は村中に響き渡り、大沼に何か投げ込まれたのではないかと、みんな恐れをなした。
まもなく、あれほど荒れ狂った空も嘘のようにもとの静けさに戻り、村人たちは、また、いつものように沼に釣りに出かけて行ったが、以前と違って、コイもフナもドジョウも1匹も釣れなかった。1年経っても3年経っても、この沼からは魚が1匹も釣れなかった。
5年の月日が経った。
晩春の穏やかな日よりの続いたある日の午後、5年前と同じように、突然あたり一面に黒雲がたちこめ、雷鳴がとどろき、閃光が走り、豪雨になった。そのすさまじさは、前回とおなじだった。そして、大きな黒雲が大沼めがけて再び落下してきた。
と、見る間に重いうなり声と同時に、黒雲は緑色の大きな物体と、大量の沼の水とともに竜巻となって舞い上がった、と思った瞬間、また急転直下、沼をめがけて落下してきた。そのときの大音響は、隣りの村でさえ、「地震だ!」と思ったほどの大きな音だった。
実は、5年前の嵐の日に沼に投げ込まれたのは子どもの竜だった。竜の子どもは、5年の間に沼の魚を食べ過ぎて、育ちすぎ、雲に乗れずに空中から落下してしまったのだった。
このことがあった後、だれひとり沼に近づくものはいなかった。が、数年経ったある日、村人たちがそっと沼に近づいてみると、大沼に落下した竜の胴体で沼は二分され、竜の胴体はこけむし、草が生い茂っていて、「まるで土手が築かれたようだ」と村人たちは語りあったとさ。
(磯ヶ谷善五郎氏の話)