バットレスダムは国内に六基しか現存しないめずらしい構造をもつダムで、戦前のわずかなあいだに十基ほどが建造された。一基はのちにロックフィルダムに改造され、一基は崩壊して犠牲者もだしたのち放棄され、二基は現存だが戦後の河川法のダムスペックを満たさなかった。
残る六基のいずれもが土木遺産に認定されており、国の重要文化財や登録有形文化財に選ばれたものもある。正確には有形文化財となっているのは、上記六基以外の一基で第七のバットレスダムであるが、堤高が15mに満たないため数には入っていない。
初めて行ったバットレスダムは群馬県の丸沼堰堤だったはずだが、そのときは沼の滋味とそこに棲むといわれる巨大へらぶなに心を奪われて、国の重要文化財にもなっている国内最大のバットレスダムの方は見ることもなく帰ってきてしまった。
そういう意味で初めて会ったバットレスダムは、北海道函館の笹流ダムだった。こちらは貯水池の方が立入禁止だったことと、桜の季節ということで多くの花見客が堰体下の広場で宴を広げていて、花にも負けず美しいダムのたたずまいが心に残ったのだった。
それ以後、バットレスダムのことは忘れていたが、長野県小諸にあった不可思議なダム跡について調べているうちに、旧小諸発電所第一調整池を堰きつつも崩落で放棄されたバットレスダムがあったことが分かった。
これを契機に残るバットレスダムへの憧憬が嵩じ、その哀愁を帯びた面立ちに強く惹かれるようになった。
戦前の一時期に集中的に造られたのは、電力需要の増加が背景にある。
把握している十基のバットレスダムのうち、北海道の笹流ダムをのぞくすべてが水力発電用として行政ではなく企業によって建設された。
コンクリートが高価な時代だったことや、水力発電ダムの好条件な立地が秘境ともいえる山奥だったこともあって、材料調達や運搬コストをできるだけ抑えたい企業側の思惑と一致して採用されたのが、格子状に組まれた鉄筋コンクリートの扶壁(ふへき・=バットレス)で薄い遮水パネル(止水壁)を支える工法だった。
構造が複雑なので人件費は高くつくが、コンクリートよりは安い時代だった。地震に弱い欠点もあるが、多くは人の住まない山奥だったから可能だったのだろう。
しかし同時に山奥は低温で雪も多い。凍害によるコンクリートの劣化は維持管理にコストがかかり、戦後、コンクリートの値段が大きく下がると、より大規模に建造できる重力式コンクリートダムの方がコスト効率がよくなった。そんな事情で半世紀以上がたった現在、希少ダムとしてわずかに残っているのみとなった。
時代の残照をまとった繊細な格子組みの構造物が、四季うつろう秘境の厳しさのなかに凜とたたずむ。古代ローマの遺跡のようなはかなげな姿は、どこか哀愁を誘う。
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