大峯修行の玄関口にある池は、身を清める水垢離の場。
龍泉寺は大峯修行の玄関口。門前には川をはさんで行者たちが使った洞川温泉(どろがわおんせん)が軒をつらねる。
池はちょうど紅葉の盛りを迎えていた。標高800mを越えるこの地は麓よりひと足、冬の訪れも早い。11月初めだというのに、朝は氷点下まで冷え込んだ。そんな冷え込みが、池を囲む木々をしっかり紅葉させているようだ。
この池を訪れようと思ったのは、深田久弥の『日本百名山』に、池のことが言及されていたからだった。
まず山上ヶ岳に登るために、山麓の洞川までバスで行った。ここは昔からの登山口で、開山期には登山者でどの宿も一ぱいになるそうである。そこの竜泉寺の境内には水の湧く池があって、修験者はそこで水垢離をして登ることになっている。境内に立っている「女人不許入」という石標が示す通り、ここから女性の登山は禁じられている。
(深田久弥『日本百名山』91大峰山)
深田久弥が訪れたときは境内から先の登山道が女人禁制だったように記されているが、今は龍泉寺から温泉街を3kmほど県道を上がって行ったところに女人結界門がある。
ここから山上ヶ岳へと至る登山道はこの時代にあって、いまだ女人禁制が1300年も守られているという。ここは単なるレジャー登山ではなく、間違いなく異界への入口なのだと強く実感させられる話だ。
山上ヶ岳山頂近く、崖先から逆さ吊りにされる荒行の場として有名な西の覗(にしののぞき)については、ちょうど再放送されたNHK「日本紀行」の大峯修行を旅先で見た。その中で若い女性が行者列に入っているのを見たような。記憶違いだろうか。
龍泉寺と温泉街を隔てる小さな川は何という名だろう。温泉街周辺は禁漁区の看板が立つが、釣りができる下流域は解禁日となると前夜から場所取りの釣り人が陣取るという。
寺と温泉街をつなぐ小さな橋は、ニジマスのエサやりスポットで、近くのパン屋さんの軒先に無料でパンの耳が置いてあった。パンを投げるとニジマスが飛沫をあげて集まってくる。この日、いっしょにやって来た二十歳になろうという娘は、すっかり餌付けにハマってしまったらしく、何度もパン屋さんに追加のエサを取りに行っていた。
ここを訪れるにあたって、もうひとつ楽しみなことがった。
20年ぐらい前だったろうか、妻とオートバイでたまたまこのあたりを通りかかったことがあり、朝早くのことだったと思うが、行者さんが二階の窓から顔を出す古風な宿があった。立ち止まることもなく、ただ通過しただけだったが、まるでタイムスリップして坂本龍馬でも見たかのような強烈な印象は、「天川」という美しい地名とともに深く記憶に刻み込まれた。いつか、あの宿に泊まって、あの行者さんみたいに窓から顔を出してみたいねと言うと、若かった妻はいつも笑った。
今回、宿をとるあたって写真で見た洞川温泉のとある旅館の写真を見て、記憶にある行者の宿と似ている雰囲気だったので、ぜひ泊まってみたいと思った。SNS映えする景観が気に入ったらしい娘の希望でもあった。
しかしお目当ての旅館は予約で埋まっていた。けっきょく空きのあった宿の中で、妻がネット上で評判のいいところを予約したということだった。
「洞川温泉」という名自体はこのとき初めて聞いたし、もともと池めぐりに都合のいい近くの宿であることが第一だったので、思い出にある「天川」のあの宿とはまったくつながらなかったし、少し離れた山奥にあるのだろうぐらいに思っていた。
どんな宿? と訊ねても、妻はよく分からないという。
温泉街に入り、助手席で地図を見ている妻が唐突に、あ、ここだ、と言った。狭い道で人通りが多かったので運転に気をとられていて景観を見ていなかった。建物を見上げたとき、胸を内側から引っ掻かれるような感覚にとらわれた。
「似てる。でもちょっと違う」
天川村の昔ながらの行者の宿といえば、このあたりしかないという。記憶の宿はここだという思いと、どこか違うという思いがあった。
とりあえず坂本龍馬のように、二階の窓から顔を出すこともできた。宿の主人の話では、昔なら紅葉の今の時期は行者さんにとっては修行のできないオフシーズンになるので、翌年の山開きまで店は閉めていたそうだ。インターネットのおかげで年間を通して外国人をはじめとした観光客が来るようになり、合わせて内装を大幅に改装したそうだ。
記憶と異なる違和感は、その現代的な薫りだろうか。
翌朝、駐車場に停めたクルマは真っ白に凍り付いていた。宿の主人がお湯の入ったヤカンを持ち出して、フロントガラスの氷を溶かしてくれた。
帰りぎわ、番台の横に飾られた古い写真が目に入った。疑問が晴れた。間違いない。ここだ。ここだった。
そんなわけで、はからずも長年の悲願が結願した。
偶然だったので信じられぬ思いだったが、家にもどったあとでアルバムを引っ張りだして調べてみると、かろうじて、そのときのたった4枚の写真を見つけた。写真の日付は思ったよりも新しかった。20年以上前だったというのは完全な記憶違いで、それは2003年の春だった。
- 作者: 深田久弥
- 出版社/メーカー: 新潮社
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マークした場所は龍泉寺の駐車場。