水辺遍路

実踏・日本の湖沼 6,850湖

大笹池(山梨県韮崎)

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レッドブルが逃げ込んだ伝説の池。

この池の存在を知ったのは、椹池(さわらいけ)という標高1280mにある山腹の池を訪れたあとだった。1980年に干上がった湖底の岩に突き立てられた奈良時代の刀剣が見つかって大騒ぎになった池である。
伝説では悪さをして甘利氏に追われた池の主の大蛇が、赤牛に化けて大笹池という山深くの池に逃げ込んだという。
逃避行の変装としては、あまりにド目立ちのレッドブルに化けるという逆転の発想にいたく感心したものだ。椹池が心に残る池だっただけに、レッドブルとなって逃げ込んだ大笹池とはいかなる池なのか、強い憧憬を持って場所の特定に熱をあげた。
当時、大笹池の情報はインターネットでは簡単には見つからなかった。かろうじて甘利山の山頂近くにあるという情報を得て、航空写真とにらめっこをして、それらしき場所をマーク。幸いにも甘利山頂は樹木のない禿げ山だった。樹木が深ければ航空写真での池の特定は無理だ。
五年のあいだ、近くを通るたびにアタックを検討したが、天候や時間帯などでなかなか好機会に恵まれなかった。
そもそも自分がマークした大笹池の場所が正しいという確証もなく、とりあえず現場での情報入手と空撮での地形把握、うまくいけば池の姿を捕捉、といった流れを考えていたが、標高2,000m近い場所だけにおいそれとは行けない。
せめて正確な池の座標や、アプローチ路の有無だけでも分かっていれば。
ところが、じつはこの五年のあいだにGoogleマップで大笹池は正確な場所がマークアップされており、「大笹池」で検索すればピンポイントで位置が表示される状態になっていたのだが、そんなことも知らず、正確な場所の特定を最大のミッションと勝手に思い込んで登山口に赴いた。

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甘利駐車場は甘利山の登山口にある標高1,640mの眺望のよい無料駐車場。水場、山荘もある。

標高1,640mの登山口には甘利駐車場があり、ここから頂上までは標高差90m、距離500mほど。
歩いても20分ほどだが、空撮で広範囲に抑えた方がよいかなどと、やや不安定な雲行きを見ながら検討するも、なんといってもまずは現地の案内板。
ありがたいことに、二つある案内板の一方に「大笹池」が記されていた。

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甘利山登山口に設置された案内マップ。右のマップの拡大図に「大笹池」のコースタイムが出ていた。

中高年登山者の陥りやすい正常性バイアス。まさか自分が。

甘利山頂まで20分、そこから池まで50分となっている。往復4.6km、140分のけっこうな行程だというのに、五年のあいだに頭の中で醸造され刷り込まれた「山頂周辺の高原の池」という、ありもしない虚像が判断を誤らせる。
山頂まで20分というところだけしか頭に入らず、そんなものなら、とりあえず状況をぱぱっと見てこようかと、さしたる機材もカッパも水も持たずに登山口をくぐったのだった。このとき座標特定の目的でハンディGPSだけは持っていたのが幸いだった。

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甘利山の登山路。整備状況はきわめて良く、山頂までならスニーカーでも問題ない。フキの黄色い花が咲く。右はキク科のヤマハハコ。

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山頂近くになるとクマザサより灌木が優勢となり植生が変わった。


標高1,731mの甘利山山頂は眺望のよいフラットな草地だった。新しい道標が立っており、大きな字で「大笹池」が案内されている。
このしっかりした安心感がまた判断を誤らせた。あくまでもこの近くという思い込みが、信じられないことに「往復2時間30分」を完全に無視させていた。
積年の悲願の池だけに、何がなんでもこのチャンスをものにしたかったのだろう。天候もやや微妙ななか、都合のわるいものは見ないふりをし、過小評価する正常性バイアスに自分がからめ取られていることに気づいていなかった。

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標高1,731mで眺望のよい甘利山山頂。ここにあった道標にも、しっかり「大笹池 往復 2時間30分」と記されている。


しかも、入口の看板では山頂と大笹池とのあいだが往復100分となっていたところ、この山頂の看板では150分と5割増しになっている。
このあたりの情報の錯綜から、冷静に考えれば、大笹池へのルートは、けっして安定した定番ルートではないことが伺える。
一度、起点まで戻ったうえで、機材、水、食糧、雨具、熊対策用具を再構築し、天候情報と時刻を再確認した上で、決行するかどうかを判断すべきであった。午後ということもあり駐車場にはほかに一台のクルマもなかったということは、この広い山塊に単独入山しているということである。もちろん登山届けも出すべきだったろう。
そんなことをすべてすっ飛ばして、意気揚々と矢印が指す方に向かって歩いて行った。気持ちのいい下り坂だったことも背中を押す。走るべきではなかった。ぱぱっと行けるいう思い込みと、都合良く判断しているというわずかながらの認識がもたらす不安が、前半は抑えめにという鉄則を軽視させていた。

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南甘利山の分岐。帰路に撮影したものなのでナビが示す数値は大笹池からの行程。ここから1km、高低差140mを下ったところにあるのだが、往路にはそんなことは想像もしていない。


甘利山頂から鞍部を経て、つまり下って登って南甘利山へ。ここに分岐があり、やはり「大笹池」の文字があり安心する。
しかしここから先の道は少々、様子が変わってくる。倒木があったりして道がよく分からないような場所も。枝や幹に結び付けられたリボンを頼りに進むが、このリボンが正しい道を示しているという確証はない。
深いクマザサに覆われ、道は途絶えがちな一本の線となる。
地上は35度を越える猛暑日だったが、入山するにあたって防水の登山靴と長袖、長ズボン、グローブを着用していたのは、せめてもの救いか。これも正常性バイアスで馬鹿をみた過去の反省から、たとえ、ぱぱっというときでも身につけるようにしていた。
下を見ると、クマザサにこすれて、新しい長ズボンが盛大に毛羽立っていた。

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クマザサに覆われルートが分かりにくい。そして急勾配を下る。(右)


ナビは登山道対応のもので等高線も表示できる山岳地図がインストールされている。進む先の登山路が示されてはいるが、この先、ずっと急坂を下った山の谷間で道の表示は途切れている。池自体は記されていない。
道の終わりまで行かないうちに大笹池に会えるはず、という甘い判断で進む。
途中、分岐が二つ、三つあった。ひとつは等高線から大笹池では、と踏んでいただけに、がっかりした。あるいは干上がっただけ? との疑念もよぎったが大笹池ならばそれなりの標柱があるはずだ。これだけ道標で案内しておいて、尻切れトンボなんてないはず、とここでも甘い判断。
さらに下る。ところどころロープを渡してくれている。ロープがなければ転げ落ちそうな急坂。帰りにここを登るのかと思うと、少々、大丈夫かとの思い。水を持ってこなかったことを悔やむ。
下った先の分岐で板切れに「大笹池→」と記された小さな道標にほっとする。ここは帰路、気をつけておかないとまっすぐ進んでしまいそうだ。ナビの軌跡があるから、まあ大丈夫だろう。
と、同時にナビが示す登山路が途切れたところまで行っても大笹池がなかったら、今回はあきらめようという現実的な考えも生まれていた。
そしてナビで示されている道が途切れた。しかも悪いことに道は左右の分岐になっている。右に行くか、左に行くか。道標はない。
さっき心の中で決めたはずなのに、あきらめるという判断が下せずに、楽そうな左側の道を根拠なく選んで進んだ。
しかしどうも沢を下る方向に大きく山を捲いている。この先、神秘の池がありそうな地形ではないと気づき、引き返す。分岐を今度は反対方向に。
案内板もないのに、引き返す判断を無視して、もう、やみくもである。
確信はなかったが、池らしきものが左の木々のあいだから、ちらと見えた。道は折り返すように下っていく。ああ、池だ。案内板はないが、これがきっと大笹池だ。大笹池ということにしよう。

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目の前に現れた大笹池。
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干上がりそうな大笹池に魚影が。

池に着いて、はやる気持ちを抑えて、まずはGPSハンディナビに現在位置をマークアップする。忘れがちな作業だ。
帰路において池と登山口との正確な高低差と距離を記録するため、これまでの軌跡をリセットした。
あ。
消してしまった。帰れますよね?
煙ったような空模様で池は少々、気味がわるい。すり鉢状のみごとな地形。明瞭な流入河川はないが、この池を水源に沢が流れ下っている。
池の吐き出しにあたる部分には、水の流出を止めるためか、土砂あるいは魚の流出を止めるためか、木の板で堰き止めのような工作がなされていた。
そっと水辺に近づく。水面を鋭く一筋の通り波が走り、刹那に見えた黒い魚影がコケの影にもぐりこんだ。鯉ではなさそうである。
2005年ごろにこの池で釣りを試みた釣り師によると、かなりの数の渓魚がいたが警戒心が強く釣りになかなかったそうである。その後、魚は数を減らしていったということだが、果たしてこの日、確認できたのも25〜30センチの二尾だけだった。
小さな池なので望遠レンズでなめまわせば魚種を特定できるだけの写真も撮れそうだったが、持っているのはiPhoneと小さな広角ミラーレスだけ。
山梨県公式の観光情報によると池の最大水深は2mとなっているが、底一面に浮遊物のようなコケが生えていて、せいぜい膝ぐらいの深さにしか見えない。極端に減水した状態なのかもしれないが、水たまりのような池で生き続けているたくましさから、渓魚はイワナだろうか。

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中央右手に魚影らしきものが確認できる。25〜30cmほどありそうだが魚体は細く、パーマークらしき模様も。

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大笹池の正確な位置。これは現在、Googleマップで大笹池としてマークアップされている場所と同一であり、Googleマップの正確さに驚いた。

追いついたと思ったレッドブルだったが。

赤牛に化けた椹池の主が逃げ込んだという大笹池。
この池に落ち着いて、もとの大蛇の姿にもどったのか、レッドブルのままだったのか分からないが、いずれにしても今のような水量では身を隠すこともできない。当時はもう少し深い淵だったのかもしれない。
やがて甘利氏の進撃は大笹池をも暴き、池の主は再び池を追われることになる。そしてこの稿を書いているときに、さらなる展開を知ることになった。
大笹池を追われた池の主は、またしても逆転の発想で、勝手知ったる山を放棄。あえて敵たる人間のふところへ。なんと麓の町中の池に逃げ込んでいる。現在の南アルプス市街地。池は現存している。
牛に化けたり、町中に逃げたり、この池主はもともとが人間の老婆ということもあってか智に長けている。
レッドブルを追って五年ごしにたどり着いた大笹池だったが、またもや逃げられてしまった。

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帰路の山頂では雲が晴れ、富士山が姿を現してくれた。

雨が心配だった以上に、水分不足が心配だったので早々に池をあとにした。復路ではやはり一回、分岐を間違えた。すぐに気づいたのでほとんど影響はなかったが、少し焦りがあって登りがオーバーペースになり、後半は足が言うことをきかなくなり、立ち止まっては進みのくり返し。やはりペース配分は大切だ。
歳をとった。正常性バイアスには気をつけよう。
最後になるべく正確な行程情報を記しておく。位置はGoogleマップのマークアップで間違いない。
甘利山登山口から山頂を経て往復180分。往路は下り基調、復路は急登の登り基調。距離は片道2.66km。帰路の積算登坂高度は248m。

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左2枚は山頂。右は登山口に着いたときのもの。

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マークした場所は登山口駐車場。