水辺遍路

訪れた全国1万1,100の池やダムを独自の視点で紹介

大野の湖(秋田県秋田)

大野潟、二ツ屋潟。

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かつて見渡すほどの「大野の湖」があった場所に、今や池の痕跡はない。写真は仁井田浄水場内の沈殿池。

22名斬殺。歴史上、もっとも激烈な結果を迎えた釣りトラブル。

全国各地の水辺を渡り歩いていると釣りをめぐるトラブルをあちこちで見聞する。
多くは池を管理する農家と釣り人の軋轢で、けっきょくは釣り禁止措置になり、それでもトラブルが解消しないと最後は警察沙汰となる。さすがに釣りをしただけで逮捕されたという事例を聞くと、それ相応の事情があるにせよ、ちょっと行きすぎではないかと思わぬでもないが、これも時代のせいかと思いきや、いやいや、古き良き時代のはずの江戸時代にはもっと激烈な事例もあった。
かつてこのあたりには大野の湖(おおののうみ)という湖周10km級と思われる大きな湖沼が存在していた。菅野真澄(すがのますみ)の遊覧記に描かれた図絵をたよりに想定した数字でしかないが、よく知られている湖沼でいえば富士五湖の西湖ほどの大きさとなる。
そんな大野の湖であるが、干拓のためだろうか、その後、大野潟と二ツ屋潟という二つの池に縮小分離したらしく、後者の方は大正時代まで残っていたという話もあるが、現在は農地と宅地が広がるだけで湖沼の面影はない。
大野の湖についてはよく分からないことも多く、いずれ現地の図書館などで調べてみたいと思う。

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菅江真澄による絵図をもとに描いた大野の湖(水辺遍路謹製)


人気釣り場ゆえの悲劇か、社会構造ゆえの犠牲か。

この大野の湖が健在だったころ、地元ではかなり人気の釣り場だったようで、多くのお武家さまが釣りに来ていた。江戸時代には釣りは武士の精神修練のための素養として、いってみれば武士であれば仕官の支障にならずば堂々と昼間から釣りができたのである。
大野の湖に通水する古川という川で事件は起こった。
諸説あるものの、大雑把にいえば竿を出していた武士の釣り糸に、運搬業務をしていた農民の舟の一部がさわったことが発端で、小さな言い争いになり、「釣り損ねた魚が惜しいのなら、わしらが釣ってさしあげましょうか」というようなことを農民側ブラザーズが言ったらしい。
これはいけない。
釣り人のブログなどを見ていると、なぜだか「釣りは下手ですが」という自己紹介をよく見かける。誰も訊いてないのに自分から下手ですと断ってはいるが、そういいながらどこか自慢めいた内容だったり・・なるほど釣り人のプライドだけは傷つけてはならぬのは昔も今も同じなのかもしれない。
少なくともメンツを重んじる武士という身分のアングラーに対して、ぜったいに言ってはならぬことを言ってしまったことは確かである。
怒り心頭で罵詈雑言を浴びせてきた武士に対して、農民側も堪忍袋の緒がばつん、ついには集団リンチへと発展していった。

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大野の撫斬事件の慰霊碑。現地に行ったときは気づかなかったが、浄水場に行く途中の工場敷地の一角にぽつんと立っている。写真はGoogleアースをキャプチャーした。


ぼこぼこにされ恨みを抱いた武士が後日、農民側の関係者22名を撫で切りにしたというのが事件のあらましであるが、多勢に無勢とはいえ、釣り糸がさわったさわらないごときでリンチにされてしまうぐらいの武士が、家父長クラスの22名もの成人男性を刀一本で斬り屠れるほどの胆力があるか疑わしい。実際には藩によるお裁きで農民側の関係者が見せしめとして死罪に処されたと考えるのが自然だろう。
「大野の撫斬」と呼ばれるこの事件は、地元の地名にも片鱗が残り、浄水場に近くには事件で死んだ22名+1名の慰霊碑が立っている。
現地に行ったときは、すぐ近くだったにもかかわらずクルマで通り過ぎてしまい見つけることができなかったが、後日、Googleアースで場所を特定したので、ページ末の地図に正確な場所をマークアップしておいた。
釣りがらみのトラブルとはいえ、よくよく妄想してみれば、釣り自体は事件の発端でしかなく、むしろ武士のメンツとそれに依拠した幕藩体制という当時の社会構造が生み出した事件といえそうだ。

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仁井田浄水場と雄物川ごしに見える鳥海山


マークした場所は慰霊碑。すぐ東が現在の古川。