【みねのこぬま。小沼神社、小沼観音】
きっかけは江戸時代の旅行家の絵から
この奇跡のような山頂の霊池の存在を知ったのは、生涯、東北や北海道を旅し、同時代のみならず後世の人々の旅心に訴える多くの鳥瞰図を残した菅江真澄の遺作からだった。
鳥瞰図に描かれていたのは、茅葺きと見られる社殿の前に杉木立に囲まれた丸い池。本来は境内のあるべきところが、すっぽり池になっている。鳥居は杉木立の外に置かれ、社殿に拝する参道として池をぐるりと半周する道が描かれている。
あまりにシンプルすぎるゆえに濃密な霊気を漂わせる池の絵に強く惹かれた。今だにあるものだろうかと思っていたら、絵に描かれていた小沼神社は池ともに健在ということが分かり胸踊った。
場所は黒塀の武家屋敷と桜で有名な角館の郊外。小沼山という標高260mの小ぶりな山が目の前に迫る小沼という集落に着いた。案内板がある程度で、駐車場などの観光設備は見あたらない。
民家わきの鳥居をくぐり少し登ると山門がある。二体の仁王像が安置されているが造られたのは最近のこと。
山門をくぐってから右手に深い谷を見ながら急傾斜の山道をのぼる。ときどき草に埋もれそうな登り道を距離にして300m、ちょっと遠すぎはしないかと思ったころに傾斜が緩くなった。
山頂は杉の大木に覆われて暗く眺望もない。少し進むとキラリと社殿の屋根が光って胸が高鳴る。近づくと絵で見たとおり、杉に囲まれたくぼ地に木漏れ日を受けた水面がところどころ光っていた。
広さは千平方メートルというから野球場の内野よりひとまわり広いぐらいの池で、みごとに社殿の前を水で満たしている。
毎年8月には、土地の人たちが集まり例大祭が行われている。
小沼神社と、峰の小沼の歴史
小沼は奈良時代には死者が登る霊場としてすでに信仰の対象になっていたらしく、平安時代には池の対岸に本殿を設け、二本の反り橋と中の島で対岸から渡れるようにした浄土式庭園の形に手が加えられたようだ。
その後、鎌倉時代には真言宗系の仏教寺院になるも、数百年下って明治元年、新政府が全国に発令した神仏分離令によって仏教色を排することになり仏像・仏具を他の近くの雲厳寺に避難させ、小沼神社としてリニューアルオープンとなった。その後、合祀によって名を何度か変えつつ、貴重な仏具も戻しつつ小沼神社の名が復活。こうしてざっと見ただけでも日本の宗教のうねりをひととおり経験してきたような池なのである。
峰の小沼の地形と池の状態
鳥瞰図を描いてみて、やっと地形が把握できた。背後に千メートル級の白岩岳、小滝山を背負ってはいるが、間に一本谷筋が通っているので小沼山は小さな山塊として独立したようなかっこうになっている。
山の頂上が少しくぼんだ形で、社殿が向く南側に向けて開口部があり、西にカーブしながら谷筋を深めていく。急傾斜地ということもあって、集落への出口近くには砂防堰堤も設けられていた。
参道はほぼこの谷筋に反っているが、途中、谷が見えなくなる場所もあった。
明瞭な流入河川と流出河川は見あたらず、水源は湧水ということであるが、山頂という立地だけに池を維持できるだけの水量が得られることが不思議でもある。
水深は全体的に極端に浅く、赤っぽい土の底が見渡せる。せいぜい数十センチだろう。ヒシモなどの水生植物が繁茂し、盛夏には草原のようになってしまいそうだ。
かつては池には多くの鮒がいたようだが、神の使いや死者の生まれ変わりとして捕えることは禁じられ、願掛けの際には鮒を放ったとも伝わる。
現在では鮒らしき魚影は確認できなかった。かわりにオタマジャクシが目立った。時おり物陰から猛スピードで別の物陰に移動する魚らしきものを何尾が見たが、速すぎて撮影が思うようにいかず、魚種の確認はできなかった。
冬場は凍結するが、これだけ浅いと底まで結氷しそうだが、湧水の周囲など一部に魚類が棲めるスペースが残されるのかもしれない。いずれにしても謎の多い池である。
小沼神社へのアプローチ
鳥居〜仁王門
仁王門
仁王門から急傾斜の山道
空から見た峰の小沼
案内板。
下の鳥居に二枚、上の社殿横に一枚(右)