南城公園(みなみじょうこうえん)。
昭和三年。八月二九日、午後四時八分。
「小諸ダム」なる名がほんとうにあったのかは分からない。確かなのは、ダムが堰く貯水池には名が与えられていた。しかし二重の意味で、それは失われたダムとなる。一度目は物理的に、二度目は名前を。
1928年8月29日午後4時8分。先端の土木技術で複雑な構造をもつ気鋭のバットレス式ダムが決壊した。
ダム下へと横溢した濁流は、6ヘクタールの土地と五戸の家を呑み込み、2人の子どもを含む5人の男女が犠牲になった。
バットレスダムは現在では国内にわずか六基しか現存していないし、六基すべてが土木遺産、あるいは重要文化財になっている。おもに民営の社有ダムで大正から昭和前期に採用されたケースが多かった。コンクリートが高価だった当時、企業ダムにとって経済性で有利なバットレスダムは魅力的な存在だった。
国内で建造されたバットレスダムは全部で八基あったが、現存六基のほかは、一基はロックフィルダムに改造され、最後の一基である当ダムは、左岸下流側の地盤沈下に端を発した決壊事故のあと再建されずに放棄された。
資料や写真がなかなか出てこないので、ダムがあった正確な場所はよく分からないが、第一調整池の跡地はおおむね南城公園の敷地となっているようだ。
園内にわずかに残っているダムの痕跡や地形から、現存する第二調整池の堰体と90度の角度で向き合った堰体と、逆L字形に屈曲した貯水池をもっていたのではないかと考えている。
事故から13年たった1941年、小諸発電所第一調整池の名は7km離れた佐久市の今井調整池に受け継がれた。しかし、いつからかこの池は、第一調整池でも今井調整池でもない、まったく別の名で呼ばれている。
今なお残る幻のバットレスダムの痕跡を探す。
南城公園はフラットな高台と同じくフラットな凹地の二段構えになっている。
テーブルトップになった高台に大駐車場と遊具広場がある。下り坂の車路、あるいは遊歩道の階段を下ると、球場、プール、マレットゴルフ場のある凹地に出る。プールは高低差のある斜面を利用してウォータースライダーが設けられており、上り下りは高台からオーバーハングしたような変わった構造の管理棟を経由する仕組み。
第一調整池はどこにあったのか? 死傷事故のあった貯水池だけに、がっつり埋め立てて公園を造成した可能性もゼロではないが、南城公園の高台部分は、戦国時代の城郭の跡地。ダム建設時を含め、わざわざそんな場所を造成した可能性は低い。
シンプルに階段を降りて、プールのある凹地の方へと歩を進めよう。
伏せた龍のような巨大コンクリート構造物。
プールの奥側に小さなマレットゴルフ場と遊閑地をはさみ、堤によって少し高くなって池がひとつ。池は上りのスロープがまっすぐ高台の工場敷地へと通じている。
池は公園要素ではなく、立ち入りはできない。工場の敷地内になるのかもしれないが、何のための池なのかよく分からない。
池とマレットゴルフ場を隔てるように、異様な巨大構造物が横たわっている。亀甲の石組みのようなものも見える古いコンクリート造り。
この構造物は7km離れた千曲川上流の取水口からはるばる地下トンネルを経て第一調整池に水を引く導水管とのことである。確かに地形的に見てこの湖底には流れ込む河川あるいは水路が見あたらない。インレットと思われる場所に池がたたずむが、明確な流入路はない。
これは第二調整池にもあてはまる。凹地を堰いて貯水池にしているだけで、水のやりとりは湖底を伝う導水管が担う。今でも揚水式発電の上部調整池などではしばしば見られる構造で、いかにもここが発電用の調整池の湖底だったという確信が高まる。
もう一度、上に掲げた空撮写真を見直してみるとよく分かるが、この導水管はまっすぐ第二調整池の方へ向かっているようにも見える。この導水管を通じて第一と第二がつながっているとすれば、このコンクリート塊は遺構ではなく、現役ということになる。ふつうは湖底にあって見ることがかなわない導水管や導水口をマレットゴルフ場でまったりと眺めることができるとは想像もしなかった。
本命のバットレス?
プールを左手に見ながら球場の方へと歩いて行くと、右側は崖のように切り立って蝉しぐれとともに迫ってくる。すると高台の駐車場へとつながる階段のかたわらの崖に、いかにもな雰囲気のコンクリート構造物が木々に埋もれるようにたたずんでいた。擁壁のようなものも土砂に埋もれながら垣間見える。
こんなに簡単に幻のバットレスダムの痕跡が? というぐらい、あっけない遭遇だった。当時の堤高は16mだったというが、かなり背が足りない感じもする。公園化して整地した際に湖底を嵩上げしたのかもしれないが、そもそも、これが堰体の一部とは限らない。バットレスダムのカットモデルなど見たことがないし、知識もない。ただ、いかにもな空気感だけでも、ひとり蝉しぐれに包まれ感電したように立ち尽くしていた。
あまりにおいしすぎる球場の外壁。
奥に進み球場のエントランスへ。もうひとつ自分の目で確認しておきたいものが球場にあった。この球場は、少々というか、かなり不思議な雰囲気。球場の周囲がすり鉢のような高台で、特に外野側には15mほどありそうな垂直に近いコンクリート壁が視界を覆っている。場外ホームランはかなり難しそうだ。
グラウンドと地つづきにフラットなのはホームベース裏手と三塁側の二ヶ所。そこだけ高台が両側から迫って凹地をはさみこむような地形になっており、ダムを据えるのであれば候補はこの二ヶ所ではないかと目星をつけていた。
三塁側スタンドのすぐ先には、あの、いかにもな遺構があるので理にはかなうものの、球場がすっぽり入るだけの器をダム直下に無駄に置いておくだろうか?
この球場を湖底と見立てたら、かなり貯水量がアップしそうだ。当初は、こちらの方を有力視していて、外野側の擁壁に何らかのダムの痕跡がないか見ておきたかった。
しかし見れば見るほど、みごとに球場にフィットした壁である。貯水池の護岸としてはいささかできすぎで、これは公園を造成する際に高台の一部を切り崩して球場を造ったと考えた方がよさそうか。いやしかし空撮写真を見れば見るほど貯水池にしたくなる壁で、ホームベース側裏手にダム本体があったという考えも捨てきれない。
アーチ型の二本の土管は、何のためのオブジェなのか。
そうだ。球場を取り囲む外壁の上に立ってみよう。
いったんホーム側まで戻って球場出口を辞し、もと来た道をプールの管理棟まで歩き、階段で高台の上へ。そこからぐるっとまわりこむようにして、球場外壁の上に着いた。展望広場と名付けられている。
おじいさんが打ったマレットゴルフの球が勢いあまってこちらに飛んできた。玉の行く先を目で追っていると、土管が二本、置かれていた。
アーチの形をしている。もしや失われたダムがらみの遺構?
考えすぎかもしれない。
先ほど見た遺構にもアーチの形の穴があった。お隣の第二調整池の洪水吐もアーチが並んだ意匠だったこともあり、アーチに対して少々、過敏になっているのだろう。
そもそも現代の土管は円形よりもアーチ型が一般的なのかもしれないし、単に子どもの遊び場としてスタンダードな土管を置いているだけなのかもしれない。コンクリートも90年の月日を感じさせるようなものではなかった。
いや、しかしなぜこんな場所に? 保存処理をしたとも考えられないか、などと、またぞろ妄想の流転にはまりこんでいく。
マークした場所は南城公園の大駐車場。